のどかな山道を上り、下りして、フッと目前に出現した、この町の全景を目にした時の驚きといったら!!
おぉ〜!と思わず声をあげるくらい唐突で衝撃的だった!

真っ青な空の下に広がる渓谷の中に、ぽつねんと出現した陸の孤島には、
粘土の固まりをヘラで削りとって作られたような家々が建ち並んでおり、
その無機質で硬質な雰囲気は、およそトスカーナの小さな町にそぐわない。
しかしだからこそ、こんな町が「トスカーナ」にあったんだぁ〜という妙な感慨が沸いてきて、
その独特な、威風堂々ともいえる立派な外観に見惚れてしまった!

険しい凝灰岩の固まりの中から生まれ落ち、
エトルリアに起源を持ち、オルシーニ、メディチといった由緒ある貴族たちが代々支配した町、
ピティリアーノとの出会いは、かくもドラマティックに始まったのである…

「Strada dei Vino 〜ワインの道〜」の看板が出ているのは、ピティリアーノがグロッセート州では有数の白ワインの産地だからである。トレッビアーノ種で作られるドライなDOCワイン「Bianco di Pitigliano」がことに有名!

地図を見ても、回りを見渡しても、周囲にあるのは「自然」だけ!それでも2000年!(古代エトルリアから)近い歴史があるんだから、全くたまげたもんである!(笑)

渓谷をまたぎ、町をつなぐ橋は、どこまでも高い。うねうねと続くS字カーブを登りきると、ようやく町の中に入る事ができる。まさしく一個の城のようなつくりである

 イタリアの中の小さなエルサレム Pitigliano

日本のガイド本には、その情報が皆無に等しい、トスカーナ南部の小さな町、ピティリアーノは、その景観の美しさだけでなく、歴史と誇りあるユダヤ人コミュニティーを持っていた町として知られている。

16世紀、教皇領から追放されたユダヤ人たちが、わずか5キロ先にあったピティリアーノに逃れてきたのがその始まりといわれている。古代エトルリア文化の重要地でもあったこの町には、凝灰岩という特異な地質の中で、彼らが多くの洞窟墓を残したことも、コミュニティーを拡大させる助けとなった。

1799年、ナポレオンに支配されたトスカーナで、ユダヤ人コミュニティーを奪取しようとする強力かつ暴力的な動きがトスカーナ全土で広まった。ピサ、リヴォルノ、アレッツオ、フィレンツェ、シエナといった周辺大都市がその動きに同調する中、ピティリアーノだけは、侵略者と戦いユダヤ人を庇護した。この年、1799年は、ピティリアーノ市民、ユダヤ人双方にとって、今なお特別な年として記憶されることになる。

18世紀後半になり彼らの待遇が改善された時でも、ピティリアーノにおけるユダヤ人の割合は20%あり、これはイタリア国内でも極めて高い数値であった。

また、1930年代に再び起こった大規模なユダヤ人迫害時も、住民による支援により、ピティリアーノのユダヤ人たちは全て生き残る事ができたという。

このように市民と町が一体となり、ユダヤ人コミュニティーを守り続けてきたピティリアーノは、大戦下のホロコースト時においても、多くの犠牲を払いながら、ナチの手から逃れてきたユダヤ人を救っている。

現在、ゲットーの名残や遺跡を残しつつ、南トスカーナの岩の中に悠然と佇む小さな町ピティリアーノは、知る人ぞ知る「イタリアの中の小さなエルサレム」と呼ばれ、ユダヤ人の歴史の中に残っているのである。
偉そうな事を書いておいて何ですが、この「事実」を知ったのは、実は帰国してからでした…。知っていたらまた違う目で見れたのに!!と地団駄を踏む一方、ピティリアーノという町の歴史とユダヤ人との関わり合いに感動したので、ここに記しておこうと思った次第でございます。これからピティリアーノに行かれる方にも少しでも知って欲しいと思ったし…
こちらのサイトを参考にしましたが、何ぶん乏しい語学力なので、誤りが多々あると思います(断言!)ご勘弁ください…過ちはご遠慮なくご指示くださいっ!
※なお、ピティリアーノには立派なツーリストインフォメーションがあり、英・伊の町のパンフレットもありましたので、そちらもご参考ください!
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